預金封鎖
2月16日にNHKが報道した特集番組「預金封鎖」で、69年前の昭和21年2月16日に預金封鎖が日本で行われたことを取り上げました。

政府の債務残高が現時点で昭和21年よりも多いのです。

現在と昭和21年を比較すると、残り時間が後5年程度しかありません。

当時は新憲法制施行前で占領下にあり、こうした措置は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の承認を得て、法律案を衆議院に提出、可決される形で行われました。

税率は最低25%から最高で90%と14段階で設定されました。

1人当たりの税額は、もちろん、保有財産額の多い富裕層が突出して多いのですが、政府による税揚げ総額の観点からみますと、中間層が最も多くなっています。

このように、財産税という漢字の印象からは、ともすれば富裕層課税を連想しがちですが、実際にはそうではなく、貧富の差を問わず、国民からその資産を課税の形で吸い上げるものであったといえます。

国による国民の資産のいわば「収奪」が、形式的には財産権の侵害でなく、あくまで国家としての正式な意思決定に基づく「徴税権の行使」によって行われたわけです。

そして、そのようにして徴収された財産税を主たる原資として、可能な限りの内国債の償還が行われました。

日銀や民間金融機関も含めて極秘裏に準備したうえで、国民向けの公表は実施の前日2月16日に行われ、わずか1日で実施に移される、という荒業(あらわざ)でした。

日本における預金封鎖は新円切り替え(新円:旧円の交換比率は1:1)と同時に実施され、約半年後に第一封鎖預金と第二封鎖預金に分割されました。

封鎖預金からの新円での引き出し可能な金額は、個人の場合、月額で世帯主300円、世帯員1人各100円(現在の貨幣価値に換算すると、世帯主が約12万〜15万、世帯員が1人各4万弱)でした。

預金封鎖等を発動した「金融緊急措置令」が公布された2月17日には、同時に「臨時財産調査令」も公布されています。

その後、昭和21年10月19日には、「戦時補償特別措置法」が公布され、いわば政府に対する債権者である国民に対して、国側が負っている債務金額と同額の「戦時補償特別措置税」が賦課されました。

これは、わが国の政府として、内国債の債務不履行は避けられたものの、国内企業や国民に対して戦時中に約束した補償債務は履行しない、という形で部分的ながら国内債務不履行を事実上強行したものです。

そしてこれも、国民の財産権の侵害にならないように、「国家による徴税権の行使」という形でした。

政府の戦時債務の不履行や、旧植民地・占領地における対外投資債権請求権の放棄等により、企業、ひいては民間金融機関の資産も傷み債務超過となりました。

このため「戦時補償特別措置法」と同じ昭和21年10月19日には、「金融機関再建整備法」および「企業再建整備法」も公布されました。

これを受け、民間金融機関等の経営再建・再編に向けての債務切り捨ての原資として第二封鎖預金が充当されました(実施は昭和23年3月)。

要するに、債務超過状態を解消するために、本来であれば国が国債を発行してでも調達すべき、民間金融機関に投入する公的資金を、国民の預金の切り捨てで賄ったのです。

そして、財産税法の公布は、昭和21年11月12日でした。

財産税の納付には、不動産等の現物納付が認められた一方で、先行して差し押さえられていた封鎖預金も充当されました。

以上が、「非連続的な国内債務調整」の典型例として、わが国が第二次大戦終戦直後に経験した厳しい債務調整の実情です。

これらの事実から明らかになるのは、国債が国として負った借金である以上、国内でその大部分を引き受けているケースにおいて、財政運営が行き詰まった場合の最後の調整の痛みは、間違いなく国民に及ぶ、という点です。

国が債務残高の規模を永遠に増やし続けることはできません。

「国債の大部分を国内で消化できていれば大丈夫」では決してないのです。

無論、世界大戦の敗戦国という立場に陥り、社会全体が混乱のさなかにあった当時と、平時の現在とは状況が全く異なります。

政府債務残高の規模が、当時とほぼ並ぶGDP比250%の規模に達したからといって、すぐに財政破綻するわけでもありません。

しかし、国債の大半を国内で消化するという現在の状況は終戦当時に通じますし、現時点で債務の膨張に歯止めがかかる見通しは全く立っていません。

今後のわが国が、市場金利の上昇などにより、安定的な財政運営の継続に行き詰まった場合、それが手遅れとなれば、終戦後に講じたのと同様の政策を、部分的にせよ発動せざるを得なくなる可能性も全くないとは言えません。

このことを、国民一人一人が、自らの国の歴史を振り返りつつ、しっかり心に留めるべきだと思います。