やしきたかじん
関西を中心に歌手やテレビ番組の司会などの幅広い活動で人気を集めたやしきたかじんさんが、1月3日に亡くなりました。64歳でした。

やしきたかじんさんは大阪市出身で、昭和51年に歌手デビューし、関西を中心に活動しました。

昭和61年に発売した「やっぱ好きやねん」や関西弁の歌詞が特徴の「東京」などのヒット曲を生みました。

民放のテレビ番組で司会も務め、政治や社会問題などを毒舌で斬るトークでお茶の間の人気を集めていました。

また、出演する番組が高い視聴率を取ることから「関西の視聴率男」の異名を取りました。

やしきたかじんさんは、2012年1月に食道がんであることを公表し、所属事務所によりますと、一時は活動を再開するまでに回復しましたが、その後、体調不良を訴え、今月3日に亡くなったということです。

葬儀は本人の希望により近親者だけですでに終えたということです。

所属事務所は7日夜遅く、ウェブサイトにコメントを掲載し、「もう一度皆様に元気な姿をお見せできる日を目指し、闘病を続けてまいりましたが、安らかに天国へと旅立ちました。快復を祈り、待ち続けてくださったファンの皆様、やしきを愛していただいたすべての皆様に厚く御礼申し上げます」と記しています。

やしきたかじんさんが亡くなったことについて、大阪の繁華街、北新地で帰宅途中の男性は「関西を代表する芸能人だったので、とても残念です。本音で話すところに好感を持っていましたし、関西弁で歌う歌手の中では一番だったと思います」と話していました。

また、やしきさんが訪れたことがあるという飲食店の従業員は「さっき亡くなったと聞いて涙が出てきました。よく店に飲みに来られていましたし、関西を愛してくれていました」と話していました。

やしきたかじんさんと長年、テレビ番組で共演するなど、親交が深かった落語家の桂ざこばさんは「悲しい知らせにとてもびっくりしています。体調は少しずつよくなっていると聞いていたので、近いうちに復帰して、また時々けんかをしながらも楽しく一緒に番組を続けていけると思っていたのに。非常に残念ですが、今はただ、ご冥福をお祈りします」というコメントを出しました。

やしき たかじんさんの経歴&エピソード

日本のシンガーソングライター、タレント、司会者、ラジオパーソナリティ。

大阪市西成区出身。

本名は家鋪 隆仁(読みは同じ)。

血液型はO型。

主に関西ローカルのテレビ番組に出演していました。

愛称は「じんちゃん」「たかじんさん」「たかじん」など。

大阪を盛り上げるために発足された民間団体「OSAKAあかるクラブ」のキャプテン。

2013年5月より食道癌のため休養していましたが、2014年1月3日未明に64歳で死去。

デビューまでのエピソード

高校時代、生まれて初めて作曲した『コーヒーインタイム』が、NHK『あなたのメロディー』に採用され、ザ・スパイダースをバックに歌手の奥村チヨさんが歌いました。

桃山学院大学経済学部に内部進学しますが、新聞記者を志した際「NHK嫌いを克服すべきでない」と考え、このことで父の権三郎氏と対立し勘当されると、同大学を中退し京都市に移り住みます。

龍谷大学経済学部在学中に歌手を目指し、京都祇園のクラブでギターとピアノの弾き語りとして歌い始め、自身の作曲活動も行うようになりました。

当時たかじんさんの曲の作詞は、高校時代からの友人である荒木十章氏が手掛けていました。

この時期のたかじんさんは自暴自棄になっていて、弾き語りで態度の悪い客には生卵・ママレモン・タバスコ等をぶっかけたり、2階から放り出したりして暴れていたため、次々にクビになったといいます。

歌手としての経歴

1971年に京都レコード(2002年に日音に版権を売却し音楽事業から撤退)から『娼婦和子』でレコードデビューしますが、刺激的かつ退廃的、「現在の日本国において娼婦などという職業は存在しない」との理由で程なく発売禁止、廃盤となりました。

1973年には、京都文化芸術会館で初のコンサートを開催。

その後の1976年に、キング・ベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』で再デビュー。

同年、FM東京が選ぶ最優秀新人賞のベスト5に入りました。

1977年に宝塚史上初のリサイタル『私の肖像画』を鳳蘭がやるということで、宝塚が行った際の「作曲部門担当」の選考で、当時宝塚の演出家であった草野旦氏が、たかじんさんのデビュー曲『ゆめいらんかね』を聴きその歌唱力と作曲センスを評価。

白羽の矢が立ち、宝塚大劇場でも共演。

男性として史上初めて宝塚歌劇の舞台に立ち、宝塚の舞台に立った唯一の男性となりました。

この時、宝塚に楽曲5曲(『うわさ』『ゴロ寝』『ゆめいらんかね』『ひょっとしたらのお話』『ラスト・ショー』)を提供、その内の1曲『ラスト・ショー』は自身が歌ってレコード(アルバム:『プロフィール』の10曲目)も出しています。

なお、1993年には宝塚歌劇・星組公演『パパラギ』で『心はいつも』を提供し、これもたかじんさん本人が歌っています(アルバム『MOOD-夢見る男のために-』の3曲目)。

さらに同年、中村敦夫氏の推薦で『新・木枯し紋次郎』の主題歌『焼けた道』(作詞:中村敦夫 作曲:猪俣公章)を歌いました。

この時、旅人役でゲスト出演しましたが、散々な内容でノイローゼとなり自殺寸前にまで追い込まれたといいます。

後に本人は「ガンダムの『砂の十字架』と同等で「生涯最大の汚点」と語っています。

またこの時の経験がトラウマとなり、その後ドラマ出演や芝居の依頼は一切拒否するようになります。

これを機に猪俣公章氏とは親しくなり、CMソング「サントリーレッド」「桃屋の塩辛」などを歌うようになりました。

1978年、一度は歌手を辞めようと決意しますが、周囲の勧めで渋々フェスティバルホールで行われた「大阪大衆音楽祭」に出場し、『ながばなし』というタイトル通り10分ほどある長い歌でグランプリを獲得しました。

本人の話では、1分1秒でも長くフェスティバルホールの舞台に立っていたくて長い曲を作ったといいます。

これがその後の歌手活動を続けていくきっかけとなりました。

1980年にファンクラブ「CONCORDE」を設立(2004年度末に本人の意向により解散)。

作詞家来生えつこさんと出会い、シングル・アルバム『明日になれば』をリリース。

活動拠点を京都祇園から東京下北沢に移します。

当時、レギュラー番組であった文化放送ラジオ『セイ!ヤング』の構成作家で作詞家デビュー前の秋元康氏と出会い親密な関係になりました。

当初は相談も兼ねて歌詞を持ってきた秋元康氏に対し「全然アカン、話にならん。持って帰れ」と散々こき下ろしましたが、その後に秋元康氏作詞の曲は多数ヒットすることになりました。

この時の歌詞について、たかじんは「詩じゃなくて作文、文章であって歌詞とは呼べない」と評していました。

一方、秋元康氏は「たかじんさんは独特のこだわりがあるから、たかじんさんを納得させる歌詞を書くのは至難の業」と語っています。

のちに、たかじんさんは「あの時、なんぼかもろとったらよかったわ」と、ネタとして度々話しています。

この当時大阪のほかに東京・仙台・名古屋などにもレギュラー番組を持っていて、雑誌『明星』に日本一移動距離の長い芸能人として取り上げられていました。

2009年12月には、その秋元康氏が作詞、小室哲哉氏が作曲という形で新曲を発表する予定があることを明かし、翌2010年11月に件の新曲『その時の空』(OSAKAあかるクラブテーマ曲)が発売されました。

秋元康氏のコメントの通りたかじんさんの歌詞へのこだわりが強く、かつて多くたかじんさんの曲の作詞・作曲を手がけた鹿紋太郎氏が新曲作りに取り組む際には、鹿氏がたかじんさんの自宅に泊り込んで半月程度の合宿をおこなったといいます。

代表的な大阪の曲として知られている『悲しい色やね』の作詞家である康珍化氏から持ち込まれた『心斎橋に星が降る』に対して、「心斎橋はアーケードあるから星降らん!!」(康氏自身は静岡の出身で大阪のことは詳しくない)と自身の曲として歌うことを断っていました。

そのため、この曲は大上留利子さんの持ち歌となって世に出てしまい前述の秋元氏とのエピソードと同じ状況に至ってしまいました。

このことから、作家泣かせとして業界で有名です。

1981年には、谷村新司氏が作詞・作曲し、たかじんさんが歌ったアニメ映画『機動戦士ガンダム』(劇場版3部作の第1作)の主題歌『砂の十字架』が13万枚のヒットとなりましたが、本人にとっては生涯最大の汚点だと話しています。

これには事情があり、当時たかじんさんを担当していたディレクターがキングレコードの部長に涙ながらに土下座し、鳴かず飛ばずだったたかじんさんにレコードを出させて下さいと直訴。

その結果キングレコードは条件として、たかじんさんにガンダムの主題歌を歌うように指示、たかじんさんも歌詞に「ガンダム」という固有名詞がないことを条件に、(土下座したディレクターのこともあり)渋々承諾しました。

しかし、歌詞が気に入らなかったことと、ジャケットに自分の写真でなく、(同作品の主人公の)「アムロ・レイ」のイラストが描かれていたことにたかじんさんがクレームをつけて発売は延期となりましたが、結局そのまま発売されてしまいました。

このように自分の意向が蔑(ないがし)ろにされ、全てが事後承諾で制作された経緯がある作品である上に、無理矢理歌わされた曲が結果的に大ヒットしたため、「これまた人生の汚点だ」として番組などで嘆いていました。

しかし後年になり岡田斗司夫氏から「今、歌えば逆に新鮮かも」との提案に、少し色気を出していました。

1982年、大阪駅前第二ビルの一角にマネージャーであった野田幸嗣氏とともに個人事務所「P.I.S(パブリック・インフォメーション・スタイル)」を設立。

その後、1983年にビクターに移籍して『ラヴ・イズ・オーヴァー』をリリース、1984年にリリースされた『あんた』が上昇気流のきっかけとなりました。

1986年には『やっぱ好きやねん』が関西で注目を集めヒット。

さらにこれが「大阪の歌手」として人気を得るきっかけとなり、1987年には『ICHIZU』が関西で大ヒットしました。

その後も、1989年には『大阪恋物語』、翌年には『なめとんか』がヒット、大阪色を前面に出したバラードシンガーとして根付いてゆくことになりました。

『やっぱ好きやねん』をきっかけに若き作家鹿紋太郎氏と出会って以降、ビクター在籍中二人三脚で楽曲を製作し現在の歌い手たかじんのスタイルを築くこととなりました。

本人曰く「歌手一本で食えるようになるまで20年はかかった」といいます。

この頃には、関西でのたかじんさんのコンサート・ディナーショーなどのチケットは入手困難となり、常に前売り即完売のプラチナチケットとなっていました。

1992年にポリスターに移籍して『泣いてもいいか』をリリース、1993年には『東京』が約60万枚の自己最高のヒットとなり、翌1994年に全日本有線放送大賞「特別賞」「読売テレビ最優秀賞」を受賞しました。

なおポリスター移籍後、多くの楽曲の作詞を及川眠子さん(和歌山出身)が担当しています。

1999年10月5日にフェスティバルホールで行われた50歳記念のバースディコンサートで一度休業しています。

2001年12月12日岡山国際ホテルで行われたディナーショーで歌手活動を再開。

2002年8月31日にフェスティバルホールで行われた「復活スペシャルコンサート」を行った際、歌い終わったあとに「やっぱ山口百恵のようにはいかんな、またマイク握っとる」と発言し、ファンは活動再開を喜びました。

なお、2002年12月30日に行われた帝国ホテル大阪のディナーショーを最後に、2003年以降一切のコンサート活動を休止していました。

2003年、「やっぱ好きやねん」がバックに流れ川藤幸三氏がCM出演した『大阪ソウルバラード』(全15曲のうち5曲がたかじんの歌が収録されている「やっぱ好きやねん」「生まれる前から好きやった」「なめとんか」「大阪恋物語」「あんた」)が阪神タイガースの18年ぶりの優勝に猛進していることも相まって15万枚の売り上げを記録。

2007年6月9日に行なわれたMBSアナウンサー八木早希の結婚式で「My Memory」「My Way」を披露しました。

この結婚披露宴はたかじんがプロデュースしていました。

2007年11月16日にやしきたかじん携帯公式サイト「発禁!?たかじん新聞」の「熱唱!!やしきたかじん」というコーナーで、本格的な歌手活動に向けてのハワイでのトレーニングの模様を収めた映像を公開するという形で歌手活動を再開しました。

歌唱した曲目は「見えない糸」「東京」「ICHIZU」「もしも夢が叶うならば」「Fly me to the moon」「やっぱ好きやねん」。

またダイジェストで「エゴイズム」「なめとんか」も歌っています。

2008年5月に公式サイトをリニューアルし、プラチナムメンバーを対象に「熱唱!!やしきたかじん」をはじめとするたかじんさんのプライベートやたかじんさんのオススメ通販情報などを動画で提供するサービスやチケットの優先予約などのサービスを開始しました。

「熱唱!!やしきたかじん」で歌唱した曲目は「見えない糸」「東京」「ICHIZU」「もしも夢が叶うならば」「Fly me to the moon」「やっぱ好きやねん」「大阪恋物語」「生まれる前から好きやった」「サン・トワ・マミー」「雪が降る」「恋」「ついてくよ」。

2008年8月29日に読売テレビの開局50周年記念として大阪城ホールで行なわれたやしきたかじんさん自らプロデュースする音楽イベントkoi-conにてステージで6年ぶりに歌いました。

「惚れた弱み」「未練〜STILL〜」「My memory」「大阪恋物語」「東京」「夢見る男のために」「やっぱ好きやねん」「明日になれば」を歌いました。

「東京」「やっぱ好きやねん」は松山千春とのデュエットでした。

このイベントの中で「もしかしたらこれ(koi-con)が最後(の舞台)かもしれない」という発言をしていますが、同時に歌うかもしれないということをほのめかしていました。

2009年に7年ぶりのコンサートツアー(8/30岸和田 – 12/14京都、全国10箇所・12公演)ディナーショー(12月20日帝国ホテル大阪)を行いました。

たかじんさんのコンサートは演出や構成が一切なく、セットや照明も控えめであくまで歌とトークを重視したシンプルなスタイルでした。

3時間前後の内、大半(約6割)がトークに費やされます。

歌はかつては15曲前後、近年では12、3曲歌っていました。

歌の間に3回から4回ほど2、30分程度(大ネタになれば4、50分)のトークがありました。

トークでオチをつけないと次の曲の演奏が始まらないことも特徴で、予想外のオチにバックバンドが慌てて演奏に入ることも少なくありませんでした。

観客からも「曲はレコード、CDで聞くからそれよりも話をして」と言われました。

それゆえに、ほとんど歌えなかったこともあり、かつてコンサートやライブで歌ったのがたった2、3曲だけだったこともあります。

たとえば、ゲストでたかじんさん同様にコンサートの大半をトークに費やす円広志氏を迎えたときなどには漫才に熱が入りすぎました。

2時間近くやっていたため、たかじんさんが「緊急事態宣言」を行い、急遽バックバンドに目配せで当初予定していた曲数を大幅カットさせたため、スタッフは大慌てだったといいます。

コンサートになると、極度の重圧から自律神経失調症や重度の胃腸炎やノイローゼになり、かつてコンサートでアンコールの緞帳が下りたときに意識を失い、生死をさまよったことがあります。

客席をまともに見ることが怖いため、ステージに立つときは必ずサングラスをかけていました。

トークのときにステージの端から端までウロウロするのはサービスや演出ではなく、精神的に落ち着かないからです。

コンサートのトーク時間が日本一長いことで有名ですが、このようなスタイルになったきっかけは、まだヒット曲に恵まれず泣かず飛ばずだった頃、どのようにすれば満員になるのか試行錯誤した結果です。

タレント・司会者としてのエピソード

普段のしゃべる時のだみ声の地声と、歌うときの高く澄んだ甘い歌声とのギャップがあまりにも大きいため関西以外では、たかじんさんが歌手であることを疑われることが頻繁にあり、関西では「スズムシの声を持ったゴキブリ」と呼ばれていました。

上岡龍太郎氏はたかじんさんを評して「普段のしゃべり声は芸人の声、歌っているときの声は歌手の声」と言っていました。

歌手でありながら、1986年に日本放送演芸大賞「ホープ賞」、1993年に上方お笑い大賞「審査員特別賞」を受賞しました。

本来であれば大賞だったのですが、たかじんさん自身が「歌手が大賞を受賞するのは芸人に対してシャレにならない」と辞退したための処置でした。

お笑いの賞と歌の賞と両方獲得しているのは、たかじんさん唯一人です。

一時期、桂雀々氏や2代目桂春蝶氏や『MBSヤングタウン』で共演した桂三枝氏(現・六代桂文枝)のもとに付いたり、さまざまな名だたる上方芸人と交流を深め(特に雀々とは北新地の居酒屋「猫八」で出会って以来の付き合いで、かつては天満のマンションに一緒に住んでいた)、しゃべりや遊びの勉強をしていた事があります。

祇園の弾き語り時代には、6代目笑福亭松鶴氏や藤山寛美氏にお茶屋遊びを教えられ、3代目桂米朝氏には大阪宗右衛門町の南地大和屋で遊びの基本を学びました。

そのため、芸人以上に芸人としての意識が強いことから、若手に対して厳しい一面もあり、飲みに行く際には喫煙・飲酒をさせない程でした。

タカアンドトシ、博多華丸・大吉、サンドウィッチマン、波田陽区、はなわ、ヒロシ、世界のナベアツなどに太鼓判を押し、彼らを気に入っていました。

また、サンドウィッチマンの富澤たけし氏は歌手としてのたかじんさんのファンです。

たかじんさんは1994年にアサヒビールの関西限定ビール「生一丁」のCMに出演しました。

「あけまっせ」「これやがな」の台詞がうけ、同製品が爆発的なヒットとなりました。

さらに1985年、ABCラジオの昼ワイド番組『聞けば効くほどやしきたかじん』で初めて帯番組を務めました。

この時、金曜日に円広志氏と行なっていた大阪駅ビルのサテライトスタジオ「ABCエキスタ」での公開生放送で注目を浴びました。

「音曲漫才(ちゃうのんブルース)」や生ライヴ、さらにはCMを無視した1時間以上に亘る内輪話が大人気となって、観客がスタジオに殺到。

その人気ぶりを写真週刊誌『フライデー』が取材し、「昼休みにサラリーマンがわざわざ営業車に乗ってまで聴くほどのお化け番組」と紹介されました。

朝日放送ではラジオ・テレビの他のレギュラー番組にも進出。

『聞けば効くほどやしきたかじん』は1987年10月に終了しましたが、その直後にラジオ『サタデーたかじん 〜午後はイッキに〜』のパーソナリティー、さらに夕方のテレビ報道番組『ニュース・ウェーブ』のコメンテーターを務めました。

放送禁止用語や放送局の出入り禁止や、名誉毀損も恐れないストレートな発言(友人であろうとも容赦なく批判する)で、テレビ・ラジオのパーソナリティーとしても関西では不動の地位を誇り、すべてのレギュラー番組が高視聴率を誇ることから「浪速(関西)の視聴率男」と呼ばれていました。

たかじんさん本人は自著の中で「僕を視聴率男と呼ばないで」と記していますが、これまでに数多くの番組をヒットさせてきました。

読売テレビ製作『たかじんnoばぁ〜』でも、編集(「ガオー」という効果音)無しでは放送できないような発言、暴言を繰り返したが、そのトークが評判を呼んでキー局の日本テレビでも放送されるようになりました。

たかじんさんがカラオケやギターの弾き語りで歌うこともありました。

この「ガオー」がこの番組の名物となりました。

放送時間が深夜12 – 1時台を過ぎているにもかかわらず、最高視聴率が25%を超え(関西地区)、読売テレビ史上深夜番組の最高視聴率記録を更新する事となりました。

この番組中に泥酔のため、たかじんさんの東京嫌いや、司会におけるスタイルを批判したゲストの立川談志氏に灰皿を投げつけ「気に入らんかったら帰れ」とスタジオから追い出し、犬猿の仲に発展しましたが、トミーズ雅氏に「放送できない」と止められました。

また、内田裕也氏と安岡力也氏がゲストに来た際、内田氏が番組のお約束でもあったコントにも参加せず、番組途中で帰ったのにまったく怒らず、その後何事も無かったかのように力也氏とトークを続ける懐の深さもみせました。

ただし内田氏が、たかじんさんのブラックリスト入りをしたのは言うまでもありません。

1992年10月より、在京放送局でテレビ・ラジオ合わせて3本のレギュラー番組を持ちましたが、東京に嫌気が差し半年後に全て降板しました。

特にテレビ朝日『M10』における味の素事件は、テレビ関係者、視聴者ともにたかじんさんの行動に唖然としたことは言うまでもありません。

また、この年は『晴れ時々たかじん』における朝日放送でも局長の失言が原因で、結果としてたかじんさんは東西のテレビ朝日の系列局で激昂したことにより、テレビ朝日は勿論、在京テレビ局および朝日放送とは絶縁し、出演することがほとんど無くなってしまいました。

これ以降は、歌手活動と並行しながら関西ローカルで数本のレギュラーを持つようになりました。

とはいえ、1994年から2004年頃までは、親交のある明石家さんま氏や島田紳助氏などが司会の東京収録の番組にも義理でゲスト出演していました。

『恋のから騒ぎ』、『開運!なんでも鑑定団』、『料理バンザイ!』などが、やはり、東京キー局とそりが合わずトラブルを起こしました。

結果的に、1998年頃から2004年に『さんまのまんま』と『幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜』にゲスト出演するまで、東京収録の番組には全く出演しなくなっていました。

また、1994年10月から2年半の間は大阪発全国ネット番組『たかじん・ナオコのシャベタリーノ』(毎日放送)の司会を務めました。

1994年から自身が司会を務める『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)が開始。

さらに1998年には『たかじんONE MAN』(毎日放送)が始まりました。

この2つはテレビ番組や芸能人など主に業界に関する企画が中心で、番組改編期になると、新番組の平均視聴率を予想するのが恒例となっていました。

また、この視聴率予想の的中率が異常とも言える程の高さを誇っていました。

これも「晴れ時々たかじん」の司会就任の頃、自宅に10台前後のビデオデッキ(最近では1テラバイトのHDDデッキを6台購入したと『たかじんのそこまで言って委員会』で述べている)を買い求めて、テレビ番組の動向をたとえ本人が嫌いな番組であってもチェック(以前はチャンネルごとに録画していたが現在はジャンルごとに録画している)していて以来続いていた、彼のネタのひとつでした。

なおアニメに関しては早送りしているとたかじんさん本人が『たかじんONEMAN』内で言っています。

これまで芸能関連の企画が多かったのですが、2002年、政治・経済などの時事問題をテーマにした特別番組『たかじんのそこまで言って委員会』を放送開始(翌2003年にはレギュラー化)。

そして2004年には『ムハハnoたかじん』が開始、5年間守っていた「レギュラー2本」が倍増しました(2011年1月以降はレギュラー3本)。

理由について本人は「老後のため」とギャグでかわしていました。

2012年1月31日には公式ウェブサイトで、初期の食道がん治療のため芸能活動を休止することを発表した。

1年2ヶ月後の2013年3月21日の『たかじん胸いっぱい』の収録より仕事復帰(2日後の23日に放送)。

2012年1月30日に発覚したこの初期食道がんについてたかじんさんは「悪性やと思っていた。これまで好き勝手に生きてきて、これで良性やったら申し訳ない」として、落胆することはなくその日の夕食にも焼肉を平らげたといいます。

翌31日には、芸能活動の休止を発表し、2月には東京の病院へ入院しました。

ここでは、「サインが簡単だから」という理由で画数が少ない林一を名乗っていました。

抗がん剤治療を受けながら、4月9日には最新型の3D内視鏡を用いた切除手術を受けたものの、縫合不全があったため、再手術を受ける羽目になりました。

しかしながら、これも1ヶ月で回復を果たし、最初の外出ではマクドナルドのハンバーガーのフィレオフィッシュを買って食べ、さらには「9月までは無理」と宣告されていた退院も6月に強行するなどして、この回復の速さには主治医も驚きを隠せませんでした。

7月には自身の生活拠点の一つである北海道へ移住し、腸に直接栄養を補給するためにパイプをとりつけたものの、それをも自分で抜いてしまうなどしています。

結局、9月には抗がん剤の副作用の影響で再び入院する羽目となったものの、これも通常2週間の入院を一泊二日で切り上げています。

これは、入院した翌日に札幌競馬場で競馬観戦に興じたかったからでした。

その後、11月にはハワイの別荘に移動し、カラオケ20曲を熱唱したり、仲間3人とワイン10本を空けるなどしていて、ここでも病気休業前の豪快さを誇示しています。

なお、このハワイには例年同様、年明けまで滞在していて、ここでゴルフに興じた際には、偶然にも島田紳助氏と会ったといいます。

たかじんさんが「そこまで言って委員会」で語った内容によりますと、ゴルフコースで自分たちの前を回っている4人組に順番を替わってほしいと頼んだところ、その中に紳助氏もいたという事で、「大丈夫?」と紳助氏がたかじんさんの体調を気遣う発言をすると、紳助の引退問題に絡めて「それより、お前こそ大丈夫か」と切り返したということでした。

たかじんさんの結婚遍歴

たかじんさんは、無名だった20代前半に一般人女性と結婚。

女の子一人が生まれましたが、その後離婚。

1993年には15歳年下の元モデルと再婚しましたが2006年に離婚しました。

この時は番組収録で離婚した事実を突然告白しました。

2013年12月に入籍した3度目の結婚相手は32歳年下の長身の女性で、3年間の交際を経て、闘病生活を支えてくれました。

やしきたかじん 妻

この写真(画像)は未亡人となられた3度目の奥さん(妻)がフライデーされたときのものです。