第二次大戦終戦直後に経験した日本の厳しい債務調整の実情 (4)

戦時国債
実際の政策運営の流れは図表2の年表で確認できますが、預金封鎖・新円切り替えを先行させたのは、財産税課税のための調査の時間をかせぎつつ、課税資産を国が先に差し押さえたとみることができます。

預金封鎖等を発動した「金融緊急措置令」が公布された2月17日には、同時に「臨時財産調査令」も公布されています。

こうした措置について、国民向けには「インフレ抑制のため」という説明で政府は通しましたが、国民からは相当な反発があったことが、『昭和財政史 終戦から講和まで』シリーズでは明らかにされています。

その第12巻『金融(1)』100ページには、執筆者である中村隆英東大教授による、以下のような記述があります。

…(前略)…これ以降の政府の説明もこの趣旨で貫かれている。こうして、大蔵当局の一時インフレの高進を抑え、時をかせごうというひかえ目な判断に基づく政策効果の見通しはかくされたまま、公式には徹底的なインフレ対策としての面のみが強調され、一般もそのような政策としてこれを理解することになったのである。そこにこの政策がのちに多くの批判をあびなければならなくなった最大の理由があったといえよう。…(後略)…

その後、昭和21年10月19日には、「戦時補償特別措置法」が公布され、いわば政府に対する債権者である国民に対して、国側が負っている債務金額と同額の「戦時補償特別措置税」が賦課されました(図表5)。

戦時補償特別税

これは、わが国の政府として、内国債の債務不履行は避けられたものの、国内企業や国民に対して戦時中に約束した補償債務は履行しない、という形で部分的ながら国内債務不履行を事実上強行したものです。

そしてこれも、国民の財産権の侵害にならないように、「国家による徴税権の行使」という形でした。

政府の戦時債務の不履行や、旧植民地・占領地における対外投資債権請求権の放棄等により、企業、ひいては民間金融機関の資産も傷み債務超過となりました。

このため同じ10月19日には、「金融機関再建整備法」および「企業再建整備法」も公布されました。

これを受け、民間金融機関等の経営再建・再編に向けての債務切り捨ての原資として第二封鎖預金が充当されました(実施は昭和23年3月、図表6)。

金融機関再建整備法

要するに、債務超過状態を解消するために、本来であれば国が国債を発行してでも調達すべき、民間金融機関に投入する公的資金を、国民の預金の切り捨てで賄ったのです。

そして、財産税法の公布は、昭和21年11月12日でした。

財産税の納付には、不動産等の現物納付が認められた一方で、先行して差し押さえられていた封鎖預金も充当されました。

以上が、「非連続的な国内債務調整」の典型例として、わが国が第二次大戦終戦直後に経験した厳しい債務調整の実情です。

これらの事実から明らかになるのは、国債が国として負った借金である以上、国内でその大部分を引き受けているケースにおいて、財政運営が行き詰まった場合の最後の調整の痛みは、間違いなく国民に及ぶ、という点です。

国が債務残高の規模を永遠に増やし続けることはできません。

「国債の大部分を国内で消化できていれば大丈夫」では決してないのです。

無論、世界大戦の敗戦国という立場に陥り、社会全体が混乱のさなかにあった当時と、平時の現在とは状況が全く異なります。

政府債務残高の規模が、当時とほぼ並ぶGDP比250%の規模に達したからといって、すぐに財政破綻するわけでもありません。

しかし、国債の大半を国内で消化するという現在の状況は終戦当時に通じますし、現時点で債務の膨張に歯止めがかかる見通しは全く立っていません。

今後のわが国が、市場金利の上昇などにより、安定的な財政運営の継続に行き詰まった場合、それが手遅れとなれば、終戦後に講じたのと同様の政策を、部分的にせよ発動せざるを得なくなる可能性も全くないとは言えません。

このことを、国民一人一人が、自らの国の歴史を振り返りつつ、しっかり心に留めるべきだと思います。

第二次大戦終戦直後に経験した日本の厳しい債務調整の実情 (1)

第二次大戦終戦直後に経験した日本の厳しい債務調整の実情 (2)

第二次大戦終戦直後に経験した日本の厳しい債務調整の実情 (3)