国債価格を合議から市場との対話で決定するようになった経緯

日本国債
2000年から発行が開始され、トータルで約40兆円も出ていた「15年変動国債」は、2008年9月に起きたリーマンショック直後に発行停止されました。




金融危機を背景に投資家が皆、国債など安全な金融商品に資金シフトしていた中、この国債に限っては、保有者が軒並み大損失を被りました。

「15年変動国債」は、複雑なデリバティブを駆使した「仕組み債」だったからです。

仕組み債は通常、「収益が足りない」「でも、こういう類いのリスクは取れない」といった個別の投資家の需要に応じ、証券会社がオーダーメードで作るハイリスク・ハイリターン商品です。

そもそも安定的な需要がある商品ではなかったのですが、それを発行体である財務省自身が組成していたというのです。

しかも、当時を良く知る複数の関係者は、「財務省は、投資家に対して金利リスクが少ないと説明したきた」と口々に明かします。

これに飛びついた地銀をはじめ、農林中金なども投機目的で大量に保有していたようですが、リーマンショックをきっかけに海外勢の投げ売りが発生し、財務省は発行停止に追い込まれました。

ところが当の財務省に反省の色はあまり見られず、「市場環境が改善すれば再発行する」と、あくまで失敗はなかったというスタンスを貫いています。

国債の安定消化を目指す財務省にしてみれば、多様な商品ラインナップを用意し、1回当たりの入札額を細かく刻んで分散したほうがいいのです。

低成長やデフレなどのマクロ要因だけでなく、こうした「職人芸」ともいえる財務省の国債管理政策がうまく機能してきたために、巨額の国債の発行・消化がスムーズに行われてきたのは確かです。

しかし、一方で「入札で売れれば何でもアリ」という入札至上主義の発想が透けて見えることも、また事実です。

その背景には、財務省にとって悪夢ともいえる「運用部ショック」の教訓があります。

これは、1998年12月に発生した国債価格の急騰です。

当時の国債発行は透明性の高い市場での消化ではなく、合議で決めた価格で引き受けるシンジケート団と大蔵省資金運用部による引き受けが中心でした。

ところが、この運用部の引受比率を大きく減らすと発表し、これを受けて長期金利が急騰したのです。

この運用部ショックをきっかけに、財務省は市場との対話を一気に本格化しました。

担当する理財局国債課も2課体制へと配置を拡大し、それまで出世路線でない理財局に省内きってのエリートが大量投入されるようになりました。

以降、国債管理政策に本腰を入れ始めた財務省は、プライマリーディーラー制度を2004年に導入、その後2005年にはシンジケート団制度を廃止し、一気に「市場化」へと舵を切ったというわけです。


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